醜男・醜女はなぜ自然淘汰されないのか
話題にまとまりありません。最近の疑問をつらつらと書いて行きます。
◯ 仏教と自殺
あらゆるものへの妄執を捨てなさいと、これはお釈迦様の教えですが、究極的には身体すら不要ということにはならないのでしょうか。すなわち、その教義は、自殺を肯定しかねないのではないでしょうか。それとも、自殺をあの世というものを仮定した上で、たとえ肉体が滅んだとしても、解脱しない以上は、苦しみは続く。だから、生きているか死んでいるかよりも、解脱したか否かが、苦しみからの解放とい意味で重要であって、自殺については肯定も否定もしないというところなのでしょうか。
◯ 砂糖の入っていない缶コーヒー
ミルク入りのコーヒーでシュガーレスというのはなぜかお目にかかったことがありません。個人的にはコーヒーの苦味と砂糖の甘味は不調和であまり得意ではないので、砂糖の入っていないカフェ・オ・レなんてあると嬉しいのですが、どこかのメーカーさん作ってくれないですかね。でも、どこも製造していないところ見ると、需要がそもそもないんですかね。
◯ ブサイクはなぜ生き残ったのか
醜男・醜女は自然淘汰されそうにもかかわらず、なぜ一定数残っているのだろうか。
まず、考えられるのは時代、地域によって美の基準は変化しうるということであろう。そもそも、美というの個人によって感じ方が違う相対的で曖昧な概念であるから、「不細工」という評価を問題設定の基礎に置くこと自体が適当ではないのかもしれない。
しかし、人それぞれであると片付けることは、この問いに正面から答えているとは思えない。又、誰から見ても不細工と評価される救いようのない人々は一定数いるわけであって、彼らに生きる自信を与えるためにもこの問い真摯に一定の答えを与える必要があるのではないかと思う。
そこで、次に、不細工な人間が現に存在しているという結果から遡って考えてみることにしたい。
不細工な人間がいるという以上、彼にも父母がいるということになる。そして、その父又は母が結婚できたということは、生存戦略として、何か異性を惹きつけるものがあったのではないか。つまり、いわば自己の遺伝子を複製するという、生物の有する究極の目的からすればハンデとなりうる不細工という性質を、圧倒的に上回るほどの生存戦略上有利となる形質が存在したではないかということである。
そして、さらに重要なことは、そのような有利な形質が実際に存在するか否かにかかわらず、不細工という性質、それ自体が生存戦略にとって有利に働いている可能性がある点である。すなわち、不細工という外見自体が、ハンデを負いながらも個体が生き残れてたからには何か生存戦略において有利な形質を有しているに違いないという印象を異性に与えうるという点において、独自の意義を有しているのである。
このように考えれば、醜男醜女の自尊心をかろうじで保ちつつ、なぜ不細工は生き残ったのかという問いに一定の答えを与えたことになるのではないだろうか。